昭和42年9月9日 朝の御理解



教団の行き詰まりといいますか、現在、教団は、曲がり角にあるとか、ま、いろいろに、そういうふうな意味での事が、言われております。御道の危機とでもいうのでしょうかねえ。今、金光教の信心は、丁度、百年を終えて、もう、七年ですか、丁度、そういう曲がり角に立つ、金光教といったようなことが言われます。そういうような、ふうに危ぶまれる、教団、三代金光様が、教団の一つの、焦点というか、改まっていかなければならない、いや、その改まりも焦点というか、そういうようなことを、全教一家、全教一新というようなお言葉を下さっております。確かに、教団の曲がり角というようなことが、三代様がお隠れになられて、四代様になられて、いよいよその事を実感いたします。そこで、現、四代金光様は、一部始終のことを、全てのことに実意を持って、何事も、全てのことを、実意をもってというふうに言うておられます。全てのことを実意を持って大切に致せ、ね。いよいよ御道の信心のあり方にならせていただく。どのような小さい事にでも、おろそかにしないと。
昨日、教務所から、あの、日吉先生が見えられましてから、色々お話の中に、現、四代様のことを、お話を、初めてお伺いしましたお話を、色々頂いたんですけれども、色んな書類なんか、あの、もう、一字一角とても、あれだけ沢山の教団から集まってくるものを、やっぱり、お目を通されますそうですね。そしてあの、例えば、名前がちょっと崩してあっても、もう、これは名前が違っておりますと言うてから、お返しになるそうです。まあ、とにかくあの、その、金光様の記憶力には、もう恐れ入ってしまうと言うてから、いうておられますですね。例えば、あの、大坪総一郎といってあの、糸偏に公を書いて心と書いてある、だからね、必ず役場に届けてあるそのままの、でなからなければいけませんち言うてから、昨日、わざわざ念押して下さいましたんですけれども、もう、ほんとにあの、全てのことに、実意を込めておられると言う事が、そういうようなことからでも伺われると言うておられますですね。ですから、教団全部が、そういうように、全てのことに実意を持って、全てのことを大切にして行くという事に、いわば、三代金光さ、四代様の声がけをくださってっおる、その声がけだけで、果たして銘々が、全てのことを実意を持って大切にしているであろうかと、こう思うと、いや、相すまんことでございますけれども、実意を欠いた事ばっかりでございます。
これは、現在の合楽は、まあ言うならば、大体におきましてから、前進の、前進、そしてまた前進というように、このー、ま、言うなら、繁盛の一途をたどらせて頂いているようでございますけれども、私は、このお言葉をいよいよ信心は、倒れぬ先の杖、と仰っておられます。倒れる前に、やはり杖を突いておかなければならないと。倒れてからでは遅いんだと。まあ、例えば、合楽のひれいというものが、段々、落ち始めてから、初めて、さあ、これは実意にならなければいけないぞ、実意丁寧をモットーにしなければいけないぞと、さあ、いよいよ、全教一新してと、言う事は、例えば、合楽の信奉者一同が一新してと、合楽の信奉者一同のものが、やはり一つの一家を成しておるように、というように、さあ、と言うて、あわててもいけない。私は、信心は前から、ね。倒れぬ先の杖であると、教祖が仰っておられます御理解を、改めていただいて、ね。おかげを頂いてから、日々、少しづつであっても、繁盛の一途をたどっているからと言うて、安心は出来ない。ね。いよいよ私共が、実意丁寧神信心をさして頂きまして、全教一新して。先日、昨日、一昨日でございましたが、総代会でございましたが、もう、今までかってない、何ともいえん、素晴らしい雰囲気の中に、総代会が開かれ、私も、ここ、十時の御祈念終わってから、参加さしてもらいましたんですけれども、もう、なんか、今までに感じられない、なんとはなしに良い雰囲気の中に総代会が開かれしかも今日一日の共励がなされ銘々の自己反省というか、改まりに改まらせて頂いてから、総代としての本気での信心が進めれれなければならないといったような雰囲気の中にです。おかげを頂きましたが、本当にこの、最近、特にこう、新たな、組織が出来出しました。それで、今まで、沢山の人がおったんですけども、その人達の役どころというようなものが、得てなかったという感じ。ですから、新しい方達、または、中堅の方達が、その、いろいろな、御用を承ることになり、こう、なんか斬新な、雰囲気がこの、漲ってまいりますと同時にです。何とはなしにその、総代、または、ま、会で言うなら、菊栄会とか、美登里会とか、ま、ここで実力を持った、いろいろな会との、対立というのではないけれども、そういう雰囲気があったんです。ね。総代さん方は、もうあの人達に任せとけばじゃなくてから、もう、あの人達がするなら、こっちは構わんと、まあ、そういう極端なことじゃないですけども、そういう雰囲気です。ね。また、菊栄会の連中が、先日、会合しましたときにも、どうも私達は、少し出過ぎるといったような、その、声を聞くからといったような事を言うような雰囲気がございましたんですけれども、そういう雰囲気が、そこ、信心でなくなるどころか、ほんとにあの、いうなら、上も下も一つになって、これからの、教会行事、教会の発展のために、信心を進められて行かなければならないといったような、話し合いに基づいて、また、そういう事に結論されてまいりましたて、ほんとにこの、そん時に、高芝さんから話があっとりましたですけれども、本当にあの、一番、合楽じゃない、椛目の時代に一番初めに、いー、御大祭を仕えたときに、神ながらに、一番前に座っておる五人の方達が、あの、総代とか何とか、全然役がない時分ですから、あなた方が、五人、そこに座っている人達が、玉串上げて下さいと言うて、玉串を神ながらに上げた人達だけが、丁度、おー、総代の御用をその後から承っておりました。当時、久保山先生、秋永先生、久富先生、高芝さん、それから、久富一郎先生でしたでしょうか。丁度前に座り合わせておるものだけでした。ほんとに、あの時分の総代といやあ、もう、本当にその、もう、言わんでも、何かがこう通うといったような総代でした。まあ、例えば、毎月、あの、御本部に月参りさして頂いとりましたが、まあ、今月一人は、都合で参られないというようなことがあると、もう、言わなくても誰かがその、旅費なんかも払ってあると。まあ、ちゃんとしとるけんで参らんの。もう、みんながその、手を取り合い、引き合いといったようなです。ね。雰囲気。さあ、何かといったらもう、とにかくその、こう、会合する事がもう、楽しゅうでたまらんといったような雰囲気があったんです。ほんとにあの時分のことから、もう何代も総代が代わって参りましたが、その当時の総代として残っておるのは、高芝さん一人ですけれども、ああいうような、雰囲気というものが、いわゆる、本当に家庭的なですかね。その、雰囲気が、現在、現在の総代の中には欠けておる。ああいう風にあらなければならないといったような話が出ておりましたがです。ね。確かに、そうでございました。ですから、ほんなら、その時分の、現在の総代は、その時分の信心、総代から、信心が低下しておるかと言うと、個人個人の信心の上には、それぞれの良い信心をなさっておるけれども、総代が十人集まって、そういう雰囲気というものが生まれてないというところに、全教一家と言う言葉をそのまま、いわば、合楽一家という実が挙がってないという事を、ま、感じなければならない。同時に上もなければ下も無い。ほんとに、打って一丸、一つの大きな家族のような雰囲気がなからなければならない。そこに、全教一新してと。
私は今朝から思いますのに、全教一新してと言う事ですけども、これは、私はもう、反対に言うても良いと思うですね。全教一新というのは、全教一家、全教一新というふうに言うと、意味がかえって分かるように思うんです。まず、全教が一家のようになってと言う事。先ず、全教が一家のようになって、一つのことを握らせてもらう。教団の、いわば、発展と。教団が願いとしておるところの、その願いにです。為には先ず、私は全教一家のほうが先だと。全教一新、全教一家と。ですから、そこらへんのところを意味が分かる、良く分かる意味合いにおいても、全教一家の実を上げるという事が有難い。ね。そういう意味で、今度の、昨日、日吉先生の話でございましたけれども、九州中の、あらゆる、いわゆる、まあ、道と申しましょうか。甘木関係とか、例えば、小倉関係だけでも、甘木関係もありゃ、福岡関係もありゃ、久留米関係もあると。ね。九州だけにある、小倉関係だけではなくて、若松関係もあると。そういうね、いわば偉い先生方を参らしての御祭典というような事にならしたら、いよいよ、全教一家の実が挙がって、有難いことになりますねというようなお話もございましたんですけれども、私としては、そういう願いを持っております。ね。ですから、先ず、なんと言うてもです。全教一新するという前に全教が一家にならなきゃ。九州中の教団人が一つにならなきゃならない。一つになって、いわゆる、全教一新するところの願いを立てなければならない。ね。全教一新するのが、実は後であるというような感じが致します。合楽でもそうです。そういう例えば、発展途上にある、ここの事でございますから、ね。いわば、曲がり角に立ったとか、行き詰っておるとは思われませんけれどもです。いわゆる、信心は転ばぬ先の杖であると。信心は、前から、そういう、転ばぬ先の杖をついとかなければなりません。ですから、私共は、そういう事になる前に、まず、合楽全体が一家を成して行くような信心。手に手を取って、若いもなからなければ老いも無い。ね。若い者は、老いた者を敬うていく。ね。また。古いものは、若い者の実力が十分に発揮出来るように、祈らしてもらう。若い者でなからなければならない御用を承っていくというようにです。それぞれの、持ち場立場において、全信心が、全力が捧げられていくような、おかげを頂くために、先ず、全教一新。いわゆる、合楽全部が一新して行くという前に、合楽全部が全教一家の実を先ず上げていかなければならない。そして、一つの願いに向かって、その、一家中のものがです。勢を揃えて一新した気持ちで祈っていくと。いう事にならしていただいたら、有難い実が挙がっていくであろうと。そこんところを、私は、もっと、もっと、実意丁寧に、全てのことを大切にして、ま、行かなければならないと。そこで、ほんなら、今度は、銘々のところの、場を考えても同じことが言えるとこう思うのです。ね。自分一家と。例えば、ここに、原さん一家、堤さん一家、または、秋山さん一家というようにです。ね。その、一家ですから、それはもう、いわゆる、秋山一家と言わんでもです。良いようなもんですけれども、果たしてその、秋山一家、原一家のものがです。ね。いわゆる、一新した信心を頂いておるかどうか。私共は、ここに思わなければならないことは、どうもこの頃、自分の、願いが成就していかんと言うか、思うようにならないとか、どうも、おかげをおかげとしての実感が、薄うなってきたというならばです。もう、貴方は、いわば、貴方一家に曲がり角が来ているのであり、一つの行き詰まりが来ているんだと悟らなければいけないと、こう思う。ね。例えば、そうではないおかげを頂いておる一家が、幸せな信心しておると言うても、やはり、転ばぬ先の杖である。ね。信心は、前から、そこんところの用心をさせてもらってです。反省させた上にも反省させて頂いていくところに、その一家が一新していくところの、雰囲気というのが漲ってくるのじゃなかろうか。
私は、そういう意味で、ここで皆さんが、あの、宅祭りをなさいます。今日は、あの、久富 勇さんのお宅の、例年の通りにあります、宅祭りが、奉仕される訳でございます。お祭りを奉仕するために、ほんとにあの、一家中の、子供達に至るまでが、お礼のお祭りを、本当に心から出来るように、一生懸命、祈りに祈り抜いておられます。ご夫婦は勿論のこと。先日、原さんが頂かれたという、ね。御結界がこう、右と左にある。ね。あちらにもお願いしたら、こちらにもお願いして行けというような意味のことを頂いておられる。という事を、原さんから、昨日、お気付けを頂かれて、改めた、夫婦の方が、ここにお願いに、あちらにお届けは終わっておられたけれども、また、こちらへ来てお届けを願うておられます。二、三日前、奥さんが参って見えてから、先生、もうほんとにあの、お祭りを九日の日に奉仕させてもらう。万事にお粗末御無礼のないように、有難い、本当に神様の喜んで頂くようなお祭りを奉仕させて頂きたいと、こう思いますと。つきましては、最近、あの、子供達が三人おりますが、三人の子供達が、何か、ちょっとした困ったことやら、色んなその事がございますとですね。一番下の、みどりさんち言うのが、あの、何年生、三年生か、四年生でしたでしょうか、あ、四年生ですか。その娘さんが、その、ある何か、不自由な問題が起こったときにですたい。お母さん、私は今度の、家の宅祭りが済むまでもう、修行と思わせて頂くと言いよった。と言うようにその、小さい子供達に至るまでが、お祭りを奉仕させてもらう事の為に、それぞれに修行しておるという事。それでこそ、私は本当に、有難いお祭りが出来ると、こう思うのです。そういう意味でですね。この、全教一家と言う事がいわば、ほんなら、久富一家というものがです、そういう一年に一遍のその謝恩祭という、一つの節目にですね、全教、一家のものが、久富一家のものが、その改まりに改まって、修行が出来るといったようなことが、本当に有難い事だと思いますね。いわゆる、転ばぬ先の杖というような信心が、そのようにして出来ていきよるといったような感じが致します。ただ、毎年、九月の九日には、お祭りをするからと言うだけではなくて、そのために、修行させてもらう。しかも、その、小さい子供達に至るまでがです。こちらが要求するわけでもないのに、お母さん、今度の、宅祭りまでは、あ、修行させてもらう、といったような雰囲気があるということが、私は、久富一家の、が、一新して行きよる姿であると、こう思うのです。ね。ですから、お祭りを奉仕しなくても、お祭りを家では出来なくても、いあ、お神様はお祭りしてなくてもです。ね。一人の信心なら、いわば、二人の信心。二人の信心なら、家族中の信心に、いわば、信心が成って行くようなおかげを頂くところに、全教が一新していけれる。ね。だから、全教じゃない、その一家が、その、いわば、信心になっていけれる。そこに、一家が一新した信心に改まって行けれる。ね。そこから、私は、行き詰まりのないおかげが頂けれるという風に思うのです。
全教一新、全教一家、これはもう、三代金光様の御時代から、その事が言い続けれれて来ております。ところが、それはただ、一つのスローガンという目印であるけれども、それに向かって、私共が、どう精進しておるかというと、本当に、一つも精進していないという感じがある。そこに、曲がり角に立った教団というような事になって来るのである。そこんところを、具体的に、現金光様が、実意丁寧に、ね。全てのことを大切にと、こう言うて下さる事になる。その、全てのことを、実意を持って大切にして行くという事。そこんところを、私は、今日は、全教一新、全教一家というお言葉を、ね。全教一家、全教一新とこう反対に思うて見ました。先ず、全教一家のおかげを頂かせて貰うて、全教がいわば、いわゆる、教団人全部が、一軒の入口のようなお繰り合わせを、先ず頂いて、そして、全教のものが一つの願いを持って、私はおかげを頂く。一家の中に、ばらばらのものであったらいけません。右をむいとるものもあれば、左をむいとる様なことじゃいかん。教団の中に於いても同じ事が言える。そこで、先ず、同じ方向へ向きを変えてしまう。そして、全教一新していくところの祈りを新たにして行くというような、おかげを蒙っていかねばならんと思うですね。それは、自分達一軒の家の上にも、その事がいえるという事でございます。また、合楽全体の上に於きましてもです。ね。いよいよ、今こそ、そういう、実を挙げていきませんとです。ほんとに、合楽も曲がり角に立ったと、合楽も行き詰ったというようなことに、なってはならんのでございますから、信心は、前から、転ばぬ杖ぞと仰るように、ね。そういうおかげを頂いていかねばならんとおもいます。どうぞ。